2024年4月25日

二十年ぶりの香港 (3)

銅羅湾を歩く

過去に香港に来た時は尖沙咀に泊まっていた。ぶらぶら街を歩いたのも九龍半島側ばかりだった。男人街、女人街、ネイザンロード、ハーバーシティなどなど。なので、銅羅湾に来たのは初めてだ。いや、一度格安化粧品を買いにつき合わされた記憶がある。せっかくなのでホテル周辺をぶらついてみる。懐かしいもの、個人的に話題の店、新しい発見などがあって楽しい。

商務印書館を見つけた。感慨深い。世界でもっとも売れたといわれる中国の国語辞典を出版していた会社だ。7億冊を売ったという。中国の人口が13億であることを考えれば不思議ではない数字である。現在は中国、香港、台湾と別れているようだが、かつてロボワードが大陸で勢いがあったころ、この国語辞典を電子化する構想があり、オーサリング(辞書データをロボワードで使える状態にすること)までは完了していた。残念ながら費用面で折り合いがつかず幻で終わってしまった。

前妻と付き合い始めたころ、中国の国語辞典の話になった。

「中国の辞典の例文はすべて中国共産党に都合のいいものになっている。」

例えば「万歳」の例文なら「毛沢東万歳!」だとか。さすがにこんな辞典は今は無いと思うが。

そこから大通り沿いを歩く。横断幕を持っている集団に遭遇する。「法輪功」20年ほど前にだいぶ話題になった。信者数7000万人と言われた。13億も人口がいたら7000万人は5%ちょっとだが、日本の人口と比較すると半分弱だ。前妻の義母は足が悪かったのだが、あるとき実家に法輪功の信者が勧誘に来た。義母が断るとその信者は「お前なんか歩けなくなればいい!」と捨て台詞を吐いて帰っていったという。中国人はあたまにくるととりあえず捨てセリフを吐く人が日本人に比べて相当多い気がする。それで損してる人もまた少なくない気がするのだが、私と違って細かいことは気にしないからきっといいのだろう。

銅羅湾書店。これは昨年話題になった店だ。中国共産党に批判的な書籍を出版していたが、店長や経営者らが次々に行方不明になった。中国当局に拘束されていたのだ。香港が中国に復帰する際、イギリスは中国に香港の自治を50年間は維持するように協議したが、その15年後には「そんな約束は守る必要がない。」と反故にしている。そのために香港の政治的自由が脅かされ、徐々になし崩し的に大陸式に近づけられていることに反対した学生たちが雨傘運動をしたことは記憶に新しい。初めて中国に行った1995年ごろでも「公共の場で共産党を批判しないでね。例え日本語でもね。」と前妻から釘を刺されたことを思い出す。そう。中国は共産国家だ。土地と人民は国のものだ。だから、土地と人民をどうしようが国の自由だ。とても人の命が軽い国だということを日本人は知らなさすぎると常々思う。

大通りを歩く。香港名物の2階建て電車に2階建てバス。ジャッキーチェンの映画に出てくるようなオープンデッキの電車はもうないのかもしれない。現代的な洗練されたデザインの車両ばかりだった。電話が鳴る。ホテルのカフェでお昼を食べないかというお誘いだった。地下鉄に乗り中環(セントラル)に向かう。

切符を買いホームに向かうまで何度かエスカレーターに乗ることになる。日本のエスカレーターより1.5倍くらい速い気がする。香港では大阪と同じく左側を空けている。香港も日本と同じく左側通行なのだが、これもまたグローバルスタンダードなのだろうか。電車に乗り目的地で降りる。駅を出て日本には無い巨大なショッピングモールを抜け、ホテルに向かう。プールサイドで「牛腩麺」を注文する。ほっとする味だ。ちなみに私は牛腩飯も好きだ。香港がどんなに立派で近代西洋式のビルになろうとホテルになろうと、味だけは変わらない。これは日本も同じだ。アジア共通なのだろうか。ただ、麺の量は日本の2倍はある。中国人ってものすごく食事の量が多いことを思い出した。

←(2)

こちらの記事もどうぞ:

    北京の思い出 先に前妻の義母からの電話について書いた。中国人はこの手の話が好きだ。 1996年頃、台湾海峡危機が起きた。…

    1996年ごろの香港島の夜景 香港が英国領から中国になって20年ほど経つ。香港には3回ほど来たことがあるが、返還後に来…

    地元客しか来ない店 日曜日の仕事も終わり、地元の取引先の方々に一緒に食事でもどうですかと誘われたので、言われたままについ…

    香港LTR

    香港は沖縄の南にあるはずなのに 寒い。三月末だというのに14度しかない。天気も曇り時々雨。風がないのがせめてもの救い。…

    21世紀の香港 二〇世紀末に香港が英国から中国に返還され、21世紀になり、中国政府は英国も約束した一国二制度を、なし崩…