北京の思い出
先に前妻の義母からの電話について書いた。中国人はこの手の話が好きだ。
1996年頃、台湾海峡危機が起きた。中国が台湾海峡にミサイルを打ち込んだ。これに対し台湾人は「今まで同じ中国人同士、戦ってきたけどミサイルを撃ち込んできたことはなかった。今度こそ中国は本気で台湾を獲りに来る。」と反応して、富裕層はカナダやオーストラリア、ニュージーランドの永住権をとって家族を移住させたりした。
同じころ北京ではタクシーに乗ると運ちゃんに「なあ、あんた日本人だろ?中国は台湾と戦争すると思うか?」などと聞かれたりした。「今度こそ戦争だね!」なんて笑いながら話す運転手もいた。別に彼らは戦争が好きなわけじゃない。一般大衆に他国を侵略するなんて考えは毛頭もない。
ただ、計画経済から実質的に資本主義経済へと社会が移り変わる中で、物価が上がり、年金は減り、社会保障は削減され、当時の中間層はお金や学歴がない自分たちの将来に対してすごく不安を感じていたり絶望している人たちもいた。「戦争でも起きてみんな死んでしまえ!」という刹那的な考え方を持つ人も少なくなかったように思う。
戦争のような大きな変化が起きて今の世の中がガラガラポンされれば、自分たちの生活が変わるんじゃないだろうかと民衆が期待してしまうのは、アメリカでトランプ政権が誕生したことと似ているのではないだろうか。
香港の思い出
香港は私のとっていろいろと思い出の土地だ。最初に来た外国が香港だった。前妻との新婚旅行でも来た。返還直前にも来て、イギリスから中国にだんだんと変わっていく様をみることができたように感じた。
1996年、まだ九龍半島の啓徳(カイタック)空港だった頃、出口で現地のガイドを待っていると、背の高い、派手な格好のロングヘアの女性が近づいてきた。彼女は私の名前を呼びながら違う人物に、しかも微妙に間違った名前で話しかけてきた。私は彼女に言った。
「あの、それは私です。」
彼女は驚いた顔をして私に言った。
「あなた、日本人?!」
これが初めて外国の地に降り立ったときに、初めて外国人からかけられた言葉だった。私は答えた。
「そうですけど。」
「空港で電卓たたいている日本人なんていないよ!」
彼女は両手をすくめ、呆れた顔をして私に言った。確かに私は両替した香港ドルのレートを計算していた。
香港の朝食と言えばお粥だ
私は中華がゆが好きなのだ。日本ではほとんど食べないが、中国に行くと食べたくなる。特に好きなのは皮蛋痩肉粥。ピータンと牛肉の赤身が入ったお粥だ。中国語で「痩肉」とは肉のは赤身。バラ肉は「肥肉」という。ある意味わかりやすい(笑)これに油條や香菜、ザーサイなどを添えると最高だ。香港の油條はカリッと揚げてある。北京だと甘くない揚げパンの砂糖なしという感じだ。どちらも私は好きだ。貝柱のお粥もうまい。義母が河北省の実家で作ってくれたお粥はサツマイモが入っていたなぁ。大きな鍋に金網をのせてその上から蓋がしてある。金網にのせた野菜はお粥の蒸気で加熱調理される。なかなか合理的な調理器具だな、と感心したことを思い出す。
ホテルの周りを歩くまでもなく、空港が新しくなっていたり、北京語が通じるようになったり、香港の街は20年前とはすっかり変わってしまったけど、お粥の味は変わらないままだ。かつて香港で味わった多くの食に、私はまだ再会できていない。
そういえば、20年前に出会った香港の飲食店で働いていた中国人。彼は安徽省という中国でも貧しい地方の出身だった。「ぜひ日本にも来てください。」と声をかけたら悲しい顔で「それはない。それは無理だ。中国はとても貧しい。」と話していた。20年経って中国は経済規模も世界第2位となり、大勢の中国人が日本に爆買いに来日するようになった。彼は日本に来ることができたのだろうか。銅羅湾のホテルで人や車が行きかう風景を見ながら、そんなことをぼんやりと考えていた。
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