2024年4月23日
浜比嘉島

沖縄県うるま市 浜比嘉島 ~シルミチューと兼ビーチ~

沖縄統一の複雑な歴史

かね食堂で昼食をすませると、勝連半島から平安座島(へんざじま)に延びる海中道路を走る。ここは浅瀬に盛土した道路なので、満潮の時は海の上を走っているかのような錯覚に陥る。

この辺り、現在はうるま市になっているが、合併前は勝連半島が勝連町、宮城島などの橋でつながっている離島は与那城町であった。二つを合わせて与勝地域と呼ぶ。首里王朝が沖縄を統一したのち、この辺りを治めた阿摩和利(あまわり)が蜘蛛の巣をヒントに漁網を考案したり、東アジアとの貿易を進めて繁栄をもたらしたが、それをよく思わない首里王朝に謀反の罪で滅ぼされたとある。

そのためか、琉球国正史において阿摩和利は敵役だが、この地域では今でも阿摩和利が英雄である。これは中城(なかぐすく)の護佐丸(ごさまる)とも共通している。正史に伝えられている戦闘の跡が遺構からは見つからなかったり、王朝に反乱を起こしたとされる人物の動機が不明だったりしているのだ。

日本書紀と風土記のように、沖縄にも王朝が編纂した正史とは別に「おもろそうし」と呼ばれる、各地の言い伝えを編纂した文章があるが、その内容は正史とは異なるものも少なくないようだ。沖縄の歴史はなかなかに謎が多い。思うに、王朝が自身の正当化を図るために、歴史を改ざんしたと見るのが妥当だろう。これはいい悪いではない、歴史における勝者の特権だ。

話がそれるが、学校は私立と公立に大きく別れる。公立には国立、都道府県立、市町村立と別れるが、与勝中学校はどれでもなかった。事務組合立与勝中学校であった。現在はうるま市立になったが、与那城町と勝連町で事務組合を設立し、学校を運営していたのだ。

もともとスポーツの強い学校であり、インターハイに出場したこともしばしばあったとのことだが、出場経験者によれば、開会式の入場行進では、「〇〇市立△△中学校」「◻︎◻︎村立××中学校」のようにすべての学校が紹介された後に(沖縄県は最南端なので、たいがい最後に名前が呼ばれる)「沖縄県与勝事務組合立与勝中学校」とアナウンスが流れると、初めて聞く名称に会場がかなりざわついたとのことである。

浜比嘉島

浜比嘉島大橋
浜比嘉島大橋

海中道路を抜けて、平安座島から浜比嘉大橋を通って、浜比嘉島に行く。ここには二箇所の聖地がある。最近は御嶽や聖地を「パワースポット」と勘違いしている若い観光客が少なくないが、失礼な話である。

沖縄の創世伝説では、ニライカナイ(理想郷)からアマミキヨ(男性神)とシルミキヨ(女性神)が沖縄にやってきて住み着き、子供を産んだとある。アマミキヨが沖縄に降り立った地が南城市玉城にある浜川御嶽。その後、二人はここ浜比嘉島のシルミチュー霊場に住み着いたとされる。ここには2人の神の墓とされるものもある。

兼久ビーチの駐車場に車を停め、シルミチュー霊場に向かって森の中を歩き進む。蝶がたくさん飛んでいる。

花の蜜を吸うアゲハ蝶

シルミチュー霊場

さらに進むと展望台に向かう道が現れるが、ここはシーズン中にしか通れない。そちらには行かずに、まっすぐ進むと、長い階段の先に鳥居が現れる。

シルミチュー霊場 階段

石段を登ると、ガマの入口に賽銭箱が置いてある。ここがシルミチュー霊場だ。ここでは今でも地元のノロが礼拝するとのことだが、そもそもノロとは琉球王朝の役職名なので、現代にノロの末裔はいても、ノロがいるはずはないのだ。

シルミチュー霊場

兼久ビーチと久場島

県内でもあまり知られていない、知る人ぞ知る美しいビーチだ。満潮だとほとんど隠れてしまうだろうが、干潮時には広い砂浜と透き通るような水が姿をあらわす。

兼久ビーチ

遠浅の砂浜の先にある大きな岩が久場島だ。干潮時なら歩いて渡れる。久場島の先には美しい入江がある。私は入ったことがないが、服を着たまま歩いて入江を進んで行く人がいるので、膝くらいしか浸からない浅瀬のようだ。

兼久ビーチ 浅瀬の水面

透明な水にはたくさんの小魚がいる。潮溜まりなら捕まえることもできる。大きな岩の岩陰の下に小さな潮溜まりがある。ここなら小さな子供が日差しを避けながら海遊びすることができる。もちろん、干潮であることが条件だ。

兼久ビーチ 浅瀬と青空

那覇からクルマで一時間ほど。西海岸のような、派手なマリンスポーツやアクティビティは無理だが、静かに自然と戯れるには最適な場所だ。正直、あまり人には教えたくないスポットだ。今度はけいたまも連れてこよう。

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